戸井 百合 プロフィール 北海道に生まれる。 呉 斉旺に師事 雪舟国際美術協会無鑑査会員 ◎1997年 第二回総合水墨画展で東京都知事賞を受賞 ◎1998年 第三回総合水墨画展で優秀賞、朝日放送賞を受賞 ◎1998年 第九回日中水墨画合同展で協会賞を受賞 ◎2000年 フォーラム2000年記念賞を受賞 ◎2001年 amscスペイン芸術賞を受賞 ◎2002年 第213回パリ ル・サロン展に入選 ◎2003年 amscスペイン芸術賞を受賞 ◎2003年 第二回パリ現代日本美術展で名誉賞を受賞 ◎2003年 第214回パリ ル・サロン展に入選 ◎2004年 スペイン・セビリア国際アートエキスポ出展 ◎2004年4月 パレスホテルのパレスギャラリーにて個展開催 ◎2004年 イタリア・ローマにてACEA(スペイン・バルセロナ国際公募団体)よりの招待出展 ◎2005年 第216回パリ ル・サロン展に入選 ◎2006年 スイスジュネーブ国際アートフェアー展にてスイスの画商お買い上げ「春日紅梅」。 ◎2007年 雪舟国際美術協会展で雪舟東洋芸術院賞を受賞 ◎2008年 雪舟国際美術協会展で審査委員特別賞を受賞 ◎2009年から日本美術年鑑の日本画家部門に名前が掲載される。 ◎1999年から2010年 雪舟国際美術協会展に連続入選 | |||
背景写真は、ル・サロン名誉会長ポール・アンビーユ氏に講評を受けているところ。
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ル・サロン展について ル・サロンとは通称で,正式には「サロン・デ・アルティスト・フランセ」と言い,フランス芸術家協会の世界最古の伝統を持つ権威ある国際公募展である。ルイ14世統治下のフランスで王立アカデミーが設置されたことに端を発し,第1回が1667年に開かれ,当時ルーヴル宮殿の「サロン・カレ(方形の間)」で開かれたのがその語源である。 第7回展以降は(フランス革命以降)運営方法が変更され1881年サロンは政府から離れ民間の組織として独立したが,現在は運営費の半分はフランス国家がまかなっており,いわゆる半官半民の組織となり,審査委員は国家より指名された芸術家がその任に当たり審査は厳重である。 かつて,ドラクロア,ミレー,マネー,モネ,ルノアール,その他の大物画家が所属していた公募展である。入選した場合はフランス国家が認めた芸術家と言うことになる。2006年以降はグラン・パレにて秋に開催されている。 | |||
戸井 百合 の訃報 妻百合子は死んでしまったのです。去る3月30日大動脈弁置換手術を東京医療センター(旧国立第二病院)心臓血管外科で受けた際、医者のミスで脳動脈に血栓をとばし脳梗塞を起こし発見が遅れ50日を超え眠り続け、ついに5月23日死去しました。 以下簡単に経過を述べます。 3月30日、百合子の大動脈弁交換の手術は手術そのものは旨くいったのでしょう。 それより我々が恐れていた事が起こってしまったのです。それは脳梗塞。 心臓の出口にある大動脈弁を生体弁に交換すると言う、今ではそう難しくない手術において、あってはならない事ながら心臓弁の血栓が脳の大動脈の血管を詰まらせたのです。その発見が遅く、10時間後に気がついたときには脳の半分が壊死状態になっていたのです。もう2-3日の命かそれを持ちこたえると2-3週間で命はなくなる。その間意識は戻ることはないとのことです。 百合子はすでにカテーテルを合わせると10回近く腹を切っています。慣れっこになっていたのが悔やまれるところです。動悸がして息が苦しくなるからと掛かり付けの循環器内科の先生に相談したところ、血液検査をしてすぐにその結果を見てこれは大動脈弁が詰まってきたのですぐに医療センターの心臓血管外科の医師を紹介するから診てもらえと言うことで直ちに出向き、まず循環器内科でカテーテルその他の検査を受け、その結果大動脈の2尖弁が石灰化して堅くなり血液の通りが悪くなっている。直ちに弁の交換を行うしかない。掛かり付けの医師は慶応大出身の医療センターで循環器内科の医長をしていた方。その方がどんどん進めて信頼の置ける良い医師だというので疑うことなく任せてしまいました。 明らかに医者の不注意だと思います。手術をした医師は百合子が先に川崎幸病院で大動脈瘤の手術を行ったときの人工血管が胸骨に癒着している事をCT画像で確認していて、どのようにして剥がすかをいろいろ検討していて、小異物が脳に飛ぶと言うことを気にしてなかったと思われます。 いま百合子は集中治療室でいっぱいチューブをぶら下げてすやすやとねています。このまま意識が戻ることは無いと医師は断言してますが、私や子供達にはこのまま百合子が命を失うことはあり得ない。あの強いお母さんがこのまま死ぬなんてあり得ないとお互いに言い聞かせています。 あれから50日以上が過ぎました。百合子の心臓は動き続けました。しかし意識を取り戻すことなく眠り続けてきました。 百合子は5月23日午前零時31分心臓が停止しました。あの寝顔は少しも変わらず静かな最後でした。長男、長女、私とでモニターと顔を見つめるうちにこれまで100であった心拍数が70になり,50になり、40でしばらく保ったと思ったら一気にゼロになり臨終が医師から告げられました。顔だけ見ていたのでは死は確認できませんでした。 身を整えられ葬儀屋に引き渡されました。 霊安室に運ばれ葬儀のあらましを話し合いました。 百合子が予てから折りにつけ申しておりました。 葬儀は親戚縁者のみで行って欲しい。 読経も戒名もいらない。 音楽と花いっぱいで送って欲しい。 年配者に優しい葬儀を希望するので、会葬は一回にし通夜は呼びかけないで来た方々でお話をするくらいにして。 そんなことは子供らに話すかエンディングノートにでも書いておけよと私は言っていたのですが、どちらもやっていませんでした。こんなに早く自分の死が来るとは思っていなかったでしょう。 私の記憶で出来るだけ希望を叶えられるように計らい、大筋で以下のようになりました。 会場は桐ヶ谷斎場(式、火葬、会食が出来る。) 日時は5月30日(土)10時から11時まで献花と音楽。 11時より火葬。 12時くらいより食事と歓談。 そして、式は花いっぱいの会場にパガニーニのバイオリンコンチェルト2番の流れる中でゆっくりと献花が行われました。 いま百合子の遺骨と写真は我が家にあって花いっぱいに埋もれています。
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