支倉哲男さんのページ

支倉 哲男さんをご紹介させて頂きます。




支倉さんは、私が入社した当時は品質管理課の課長さんでした。 いつもベレー帽をかぶり黒ぶちの眼鏡をかけてとてもモダンな方でした。登山が大好きで、色々な 山の話をしてくださり、いつもワクワクしながら聞いた事を思い出します。 登山家の三浦雄一郎さんとスキーをしたことが あると、話しておられました。
支倉さんは、仙台藩主 伊達正宗の家臣であった支倉常長(慶長遣欧使節団)の子孫で、 支倉家第29代当主です。
平成17年7月に私たち、エギュークラブで蔵王温泉に行った際、途中宮城県柴田郡川崎町の 支倉常長のお墓に立ち寄り、お参りした時の写真を載せました。
常長の墓については、ほかの場所にもあるらしく、諸説あるようです。



常長の墓

支倉さんから毎年頂く年賀状は、ご自身のスケッチされた絵がプリントされたものです。 いつも大変楽しみに拝見しています。


平成23年の年賀状《洋上からの金華山》です。
文面もご紹介しましょう。・・・・・
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メキシコ提督 ビスカイノ、通訳 ルイス・ソチロ。 メキシコ船大工40人。侍数人、商人たち総員180人を サン・ファン・バウティスタ号に乗せた支倉常長は、慶長18年(1613)9月15日早朝満潮に乗り、 牡鹿郡月の浦を出帆。メキシコのアカプルコへの道へ、さらにローマへの道へと。仙台港から太平洋 の 大海原へと乗り出し、常長はじめ180名は、遠ざかりゆく金華山をいつまでも、いつまでも見ていたこと だったろう。
今から24年ほど前、北海道からの帰路、苫小牧港から仙台港への船旅の折に、“仙台港入港”のアナウンスに 甲板に出て目の前に見えた金華山を急いでスケッチしたものです。
東洋刃物勤務当時、会社の夏休みに金華山の頂上の凹に、独り寝ころんだこともあった。・・・・


平成19年の年賀状
文面もご紹介しましょう。・・・・・
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《元朝や 野武士然たる 大東岳》
シギ、チドリ、アジサシなど渡り鳥の休憩干潟で有名な仙台市宮城野区 中野字蒲生沖、太平洋の水平線から昇った2007年初日に、その頂を染めた 1365mの大東岳。その里山の太白山や藩山を従えてすっくと聳えている。


支倉さんのお住まいは仙台市宮城野区です。
2011年3月の東日本大震災の時は地震と津波で大きな被害のあった地域です。
ご自宅の庭先まで津波が来たそうですが、辛うじて自宅への浸水は免れたそうです。
震災の後に、甚大な被害を受けた会社(東洋刃物)にお見舞いに行ったり、 “自分は無事にいる”ということを、東刃OB名刃会の会長あてに、 本人自ら連絡をしてきたと、聞いています。そしてその気づかい、気配りの細やかさ、行動の 速さなど、など頭が下がる思いでした。

ところが、なんと2011年10月22日お亡くなりになられたとの訃報にせっしました。 とても信じられない思いでいっぱいです。やはりこの大きな災害に当たり、ご心労が つのられたのでしょうか??  以前目標は100歳とおっしゃっておられたことを思い出しました。 本当に残念です。 まだまだやりたい事が沢山あって、100歳までには、やり終えられないかもしれない からと、おっしゃっておられたのです。歌曲がお得意で、エギュークラブの会では、 声量あふれる声で藤原 義江の“出船の港” などをうたって下さったこと など思い出されます。宿の方からお借りしたのでしょうか?、柄の長い箒を用意して、 それにまたがり、船(サン・ファンバウティスタ号)に見立てたのでしょう。あの姿が目に浮かびます。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。



石巻市には、常長達、使節団を乗せた木造船“サン・ファン・バウティスタ号”の復元船が係留されている 博物館があります。
2010年8月に私たちエギュークラブは、北上川河口から少し北の山間の温泉宿“追分温泉”に 行きました。二日目(翌日)サン・ファン館を見学しました。博物館の館長さんは、
支倉さんのお知り合いとのことで、館長さんのお取り計らいで、副館長さんに詳しく案内・説明をして頂き、 バウティスタ号の頑丈な構造などがよく分りました。


2010年8月2日博物館前にて

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